北九州市 時と風の博物館

日常の中で見過ごされがちな北九州市が誇るべき魅力や個性を、地域資源として私たち自身で編纂し、未来へ繋げましょう。

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初代源信国平四郎吉政茎(なかご)

筑前黒田藩刀匠筑前信国派・初代吉政・義直

初代源信国平四郎吉政鑑定書
信国義直押し型
北九州市の八幡東区、西区、戸畑区、若松区は旧筑前国黒田藩領でしたので、黒田藩お抱え刀工の筑前信国派の作品をご紹介します。
筑前信国派とは初代京信国より四代目信国定光が南北朝の戦乱で焦土となった京の都を見捨て宇佐八幡宮の有る宇佐に移住、安心院氏に仕えました。十二代信国吉貞は安心院氏滅亡後新領主となった細川忠興に仕官を迫られましたが、前の豊前国領主黒田長政公に仕えるとの約束しておりましたので慶長7年(1602年)、彦山参詣に託けて妻、長男吉政、家来を伴い半ば脱出の体で筑前へ移住し黒田長政に仕えました。
貝原益軒の筑前国風土記土産考に筑前信国派の刀工の事が紹介されております。
筑前信国派の主な刀工は以下の通りです。
信国吉政系
筑前信国派初代信国吉貞-吉政(初代:平四郎★今回ご紹介脇差の作者)-吉政(二代:平四郎)-吉政、後に重宗と改名(三代:平四郎)-吉政(四代:平四郎)-重久(弥九郎)-光昌(又左衛門)-美直(又は義直)-義昌-義一-義直(平助★今回ご紹介短刀の作者)
☆信国吉次系
信国吉次、信国吉包、(将軍徳川吉宗より刀の茎(なかご)に葵紋を入れることを許される)、信国重包、後に改め正包と銘する、筑前刀の研究で高名な市民の寄贈で北九州市立いのちの旅博物館に正包銘の刀が収蔵されておりますが通常は非公開) 信国茂包、信国包利、信国吉清、信国行国、信国重載、信国定国
☆信国吉助系
信国吉助、信国吉貞(祖父と同名)、信国重貞、信国吉親
☆信国吉政(初代)(のぶくに よしまさ (しょだい)1590年(天正18年)~ 1653年(承応2年)12月4日没、法名慶雪常快居士)
刀工信国派十二代(筑前信国派初代信国吉貞)の長男で、父より来国行・正宗伝を、備前福岡一文字助宗に備前伝を受け信国別家となりました。薙刀の名工と知られており、黒田家中で『平四郎の薙刀』と呼ばれて珍重されました。初め、平助吉貞、平四郎、晩年は銘を善雅(よしまさ)と切った刀もあります。二代、三代と比べて初代吉政は現存数が極めて少ないようです。俗名助左衛門。筑前信国吉政系の初代です。1602年(慶長7年)父吉貞に連れられ豊前から筑前へ移住 。 黒田長政の御前鍛刀を行い、1616年(元和2年)26才で長政の命で備前へ行き、福岡一文字助宗伝を受け、一代で三伝を鍛刀する。父吉貞に無断で備前伝を学んだ為に父吉貞より廃嫡されたとの伝承が有りますが誤伝と思われその後も一族、力を合わせて黒田家に尽くしております。
嫡家を弟信国吉次(勘助)に譲り別家になったのは1625年(寛永2年) - 1634年(寛永11年)の間でしょうか。
信国 平助 義直(のぶくに へいすけ よしなお、1827年(文政10年) - 1875年(明治8年)3月14日、戒名:鐡仙道肝居士)は刀工です。信国派の筑前信国義昌(又左衛門)の子、または孫。瓦町(現祇園町)に住み冷泉津住信国義直や石城府住信国義直と銘する鍔も有ります、刀匠としてよりも鍔の作者としての方が有名かもしれません。俗名平助、又左衛門。  筑前信国派吉政系最後の刀匠です。