北九州市 時と風の博物館

日常の中で見過ごされがちな北九州市が誇るべき魅力や個性を、地域資源として私たち自身で編纂し、未来へ繋げましょう。

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小倉城4階で2月26日まで展示中

小倉どうじん凧

小倉どうじん凧
北九州市小倉南区城野では、昭和40年頃まで大ぶりの「どうじん凧」が作られていた。作者が没してから凧は忘れ去られ、地元ですら「どうじん凧」の素晴らしかったことを知らない人が多い。
小倉どうじん凧の起源は「小笠原(玲)文書」178「源忠直公年賦二」寛永十五年戌寅、「公43歳(1638年)」島原の乱に出陣する武将に、小倉藩の典医花房道順正信が島原地方で見てきた凧に、龍が波をけって空に昇る姿に雷と太鼓を描き加えて、戦勝祈願として武将に送ったのが始まりと伝えられている。
「どうじん凧は」、北九州市小倉、戸畑ではどうじん、筑前では雲龍とも呼び、柳川唐傘唐人凧、山口長門ドージン凧、広島どうじん凧、千葉上総唐人凧、会津唐人凧など各地で、どうじん、道人、唐人、道仁など呼び名があり、その土地の特色をとり入れて「どうじん凧」の形にしている。
1549年鹿児島に上陸したフランシスコザビエルは、鹿児島、肥前平戸、博多、小倉、山口、大分でも布教をし、大分のキリシタン大名大友氏や山口の大内、毛利氏とも深い関わりがあり、1582年、天正少年使節の一員である中浦ジュリアンが小倉でも布教をしている。1610年には小倉の人口約6、7千人のうち信者は2千人を超えたと云われている。少年使節の一人伊東マンショも1611年司祭として小倉に赴任している。1602年小倉城を築城した細川忠興はキリシタンではなかったが、ガラシャ夫人の指導司祭セスペデス神父を小倉に招き布教を援助している。その後細川氏は1614年からキリシタンを迫害する側につき、その後日本は鎖国へと至る。1632年中浦ジュリアンも小倉で捕り処刑されている。小倉どうじん凧が出来たのもこの頃で、どうじん凧の骨組みに、隠れキリシタンの十字を組み込んだ物もあると言われている。
合津唐人凧の起源はレオという洗礼名を持つキリシタン大名蒲生氏(1590年頃)や、長崎にあって会津人参の貿易を一手に引き受けていた豪商足立仁十郎が、南蛮文化の唐人凧を伝えたという説もある。(1830年頃)
長崎五島のバラモン凧(婆羅門)は通例雲龍を描き、又裂弓を頭に置き、空中風を受けて雷鳴の如しと伝えられる。バラモンは全く中国の風筝に他ならず、「どうじん凧」との関係も推測出来る。長崎県五島は倭寇、八幡船の島であり、キリシタンも多数入植している。
これら「どうじん凧」の一部に、宗教的色彩を加味し、日本と西洋、中国、アジアの特色を取り入れた日本各地の「どうじん凧」で情報交換ができればと思っています。